築城年代は定かではないが応仁年間(1467年〜1469年)に武田義広によって築かれたのが始まりとされる。
天文6年(1537年)家督相続争いで武田信隆が峰上城、佐貫城、海造城を拠点とし、小田原北条氏を頼って武田信応に対抗したが、信応方の足利義明、里見義堯によって落城することとなる。
その後は里見氏の城となり、里見義弘の頃には本城ともなったが、里見義弘が没するとその子梅王丸に家督を継がせた加藤信景が佐貫城に入って安房の里見義頼と敵対する。天正8年(1580年)里見義頼は上総へ侵攻し、佐貫城を攻めたてたため、加藤信景は梅王丸の助命を求め開城した。
天正18年(1582年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は内藤家長に二万石を与え佐貫城主とした。
和暦(西暦) | 事象 |
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天正18年(1590年) | 内藤家長が二万石で入封。 |
慶長5年(1600年) | 内藤家長は関ヶ原合戦の前哨戦となる伏見城の合戦で討死し、家督は嫡男政長が継ぐ。 |
慶長7年(1602年) | 関ヶ原合戦の功によって一万石の加増を賜り三万石となる。 |
元和元年(1615年) | 大坂冬の陣の功によって安房に一万石を加増、四万石となる。 |
元和5年(1619年) | 五千石を加増され四万五千石となる。 |
元和8年(1622年) | 内藤政長は陸奥平に七万石で転封となる。替わって武蔵深谷から松平忠重が一万五千石で入封する。 |
寛永10(1633年) | 松平忠重は駿河国田中へ転封となる。 |
寛永16(1639年) | 松平勝隆が一万五千石で入封する。 |
貞享元年(1684年) | 松平重治のとき改易となり、佐貫藩は一時消滅した。 |
元禄元年(1688年) | 柳沢吉保が一万二千三十石で大名に列し佐貫藩となる。 |
元禄3年(1690年) | 二万石を加増され三万二千三十石となる。 |
元禄5年(1692年) | 三万石を加増され六万二千三十石となる。 |
元禄7年(1694年) | 柳沢吉保は七万二千三十石で武蔵国川越に転封となる。 |
宝永7年(1710年) | 阿部正鎮は三河国刈谷より一万六千石で入封する。 |
佐貫城は佐貫中学校の東、染川と北上川に挟まれた丘陵に築かれている。
南の駐車場脇から登っていく入口に石垣の櫓台があるが、これが近世佐貫城の三の丸櫓台で現存の遺構である。駐車場のある麓に近い平地が三の丸で陣屋として利用された。
ここから登っていくと竹藪となった二の丸を経て本丸に到達する。二の丸と本丸の間には大きな空堀があり土橋が架かる。本丸側には土塁が付いていて虎口になっている。本丸からは展望台となった西の尾根上に道が通じている。
本丸から北東側の山にも堀切や曲輪などの遺構が続いているが、この辺りは中世の遺構であろうか。
佐貫中学校南側の県道を東へ進んでいくと館山道の下を潜る道となるが、その手前に登り口があり、その西側に駐車場がある。
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