寛正2年(1461年)真里谷信興によって築かれたと云われる。
真里谷武田氏が安房の里見氏に備えるために築いた城の一つとされる。 天文6年(1537年)真里谷武田家の内訌で武田信政が造海城、武田信隆が峰上城に籠もって対抗したが、小弓公方足利義明、里見義堯らの軍勢に敗れ、造海城も開城した。
その後は里見氏の城となり水軍の拠点として正木氏が守備したという。天正8年(1580年)頃には正木淡路守の居城であったが、天正18年(1590年)に廃城となる。
幕末の文化8年(1810年)陸奥国白河藩によって海防のための砲台が造海城跡に築かれ、幕末まで維持された。
造海城は白狐川の河口西側に聳える標高100m程の城山に築かれている。
海に面した山城で山頂から北西、西、に伸びた尾根に遺構が点在している。この山には中世山城の遺構と近世砲台の遺構があり、主郭の西側にある曲輪に砲台跡の土塁などが残っているが、この辺りは結構な藪であった。
中世山城の遺構としては岩盤を垂直に断ち切った横堀が見事に残っている。また長方形の池には現在も水が溜まっており、これも中世の遺構であろうか。近くには切通に石段、石垣なども確認できる。
山頂から北東の尾根は堀切や小さな曲輪が点在する程度であるが、西側に向かうと広い曲輪があり、西端から北へ降りた辺りには広い曲輪がある。
北東端にある十二天神社から登るルートと大灯篭大師から登るルートがあり、現在は大手とも云われる大灯篭大師ルートが整備されていて登りやすい。
大灯篭大師ルートは国道のトンネル東側から南に入った所に駐車場があり、そこから大灯篭大師経由で尾根上に登って行く道がある。
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