築城年代は定かではない。 法永長者(豊栄長者)または法永居子と称した人物の子孫は、文明8年(1487年)塩買坂にて戦死した今川義忠の家督相続争いで伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)とともに竜王丸とその母北側殿を小川城に庇護した。この功によって長谷川氏と名乗り今川氏の被官となったといわれる。
長谷川長重、長谷川次郎左衛門尉政宣、長谷川元長、長谷川右衛門正長と続いたとされ正長の時に徳之一色城付近に移ったとされる。
現在は市街地となっており小川城の遺構は残っていないが、発掘調査によって堀や虎口、土塁などが検出されいる。
法務局焼津出張所のある区画の西側には南北に自転車と歩行者用の道路が通っている。この道路を南側に進んでいくと案内板と石碑が建っている。
最寄り駅(直線距離)