南北朝時代に南朝方に属した入江駿河守が中野掃部助とともに北朝方の今川氏と戦ったが敗れ、久能山城に退去したことが知られるが、当時は本格的な城郭ではなく、城郭寺院に着眼して代用したものと考えられている。
永禄12年(1569年)頃に武田信玄によって築かれた。永禄11年(1568年)駿河国に侵攻して今川氏真を破った武田信玄は久能山にある久能寺を移設して久能山城を築いた。
武田氏は今福閑斎・今福丹波守を守将として兵350、馬上40騎を与えて守らせた。 天正元年(1573年)今福丹波守は遠江国諏訪原城の城番を命ぜられたが、天正3年(1576年)徳川家康によって攻められ落城すると再び久能山城に籠もった。しかし、天正10年(1582年)2月27日に持舟城が徳川家康によって落城すると、久能山城も徳川軍によって包囲され今福丹波守は開城して甲斐国へ逃れた。
天正11年(1583年)松平源三郎勝俊が城主となったが天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、駿府城主となった中村一氏の家臣松下吉綱が城主となった。慶長6年(1601年)大久保弥一郎忠政が入り、慶長11年(1606年)以降榊原清政・照久父子が在城したが、元和2年4月17日徳川家康が駿府城にて没するとその遺言により久能山城は廃城となり、愛宕曲輪に埋葬され久能山東照宮が造営された。
久能山城は太平洋に面した久能山山頂に築かれており現在は久能山東照宮の神領となっている。北側には名勝日本平がある。
久能山東照宮の造営によって城跡の遺構を確認することは難しいが、土塁と勘介井戸を代表とする井戸が三箇所に残るという。
久能山東照宮へは日本平からのロープウェイ(往復1000円)、南麓からの石段1159段があります。久能山東照宮への参拝は大人500円、博物館は400円(共通券800円)が必要です。
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