永禄12年(1569年)武田信玄によって築かれた。縄張りは馬場美濃守信房、奉行は今福和泉守という。
永禄11年(1568年)駿河国に進行した武田信玄は今川氏真を追い払い駿河を占領したが、北条氏政が今川救援の軍勢を駿河に派遣すると薩タ山に陣を構えて武田氏と対峙した。武田氏は横山城と久能山城を改修して北条氏に対抗するとともに江尻城を急造して海岸線の確保を行い武田左衛門佐信光を城将として守備させた。
元亀元年(1570年)山県三郎右兵衛尉昌景を城主としたが、天正3年(1575年)長篠合戦にて武田氏は多くの将兵を失い昌景もまた討死した。天正6年(1578年)武田氏の一族穴山梅雪が城主となると城は大改修され駿河国の拠点となった。
天正9年(1581年)遠江国高天神城が徳川家康によって攻略されると翌天正10年には田中城も落城。徳川家康は長坂信政を使者として穴山梅雪に遣わすと梅雪は和議を請うて徳川氏に降った。梅雪は徳川家康の甲斐進行の道案内として働き所領を安堵されたが、天正10年(1582年)安土城の織田信長に面会したのち、徳川家康と堺を見物中に本能寺の変が勃発し帰国途中で一揆により落命した。家督は嫡子勝千代信治が継いだが天正15年(1587年)わずか16歳で夭折し穴山家は断絶した。
徳川家康が関東に移封となると駿府城<主となった中村一氏の家臣横田隼人が城主となったが慶長6年(1601年)廃城となったという。
現在の清水江尻小学校一帯が江尻城跡で、「二の丸町」の地名が現在も残るが城の遺構は残っていない。付近の道路には町の由来が記された案内板が設置されている。
帰宅後に知ったのだが小学校の校内に石碑と城の案内板が設置されているようである。このご時世休日といえど学校内に入るのは気が引ける。一応周囲を確認してみたのだが全く気づかなかった。