築城年代は定かではないが興津氏によって築かれたと云われる。 興津氏は藤原氏の末裔で入江右馬允維清の嫡男船越四郎大夫清房の嫡男四郎維道を祖とするという。
今川氏が駿河国守護として入部するとその被官となって活躍した。延文年間(1356年〜1361年)興津美作守の時に興津館より横山城に居城を移した。大永5年(1525年)には連歌師紫屋軒宗長が興津横山城を訪ねている。 大永年間(1521年〜1528年)には興津藤兵衛尉・興津彦九郎宗鉄、天文年間(1532年〜1555年)には興津三郎左衛門の名が残り、代々興津氏の居城であった。
永禄11年(1568年)武田信玄は駿河国へ侵攻し駿府を手中に治めたが、北条氏政が派遣した今川氏救援軍によって薩タ峠以東は北条氏によって押えられた。武田氏は甲府への帰路を確保するべく横山城を改修し、久能山城と横山城に兵を籠城させ、横山城には穴山梅雪を置いてようやく帰路についた。その後、江尻城が築かれると穴山梅雪は江尻城へ移った。
横山城は興津川の西岸にあり川に突き出すように東へ延びた丘陵に築かれており、駿河国と甲斐国を結ぶ見延街道を押さえる要衝に築かれている。
城山の南麓に案内板と石碑があり、そこから山に向かって道が続いているのだが途中から草木が生い茂り、降雨ということもあって山頂まで登ることができなかった。 手持ちの縄張図によれば、山頂から東へ伸びた尾根と登山道のある南の尾根、そして見延街道桜峠に向かって伸びる北西の尾根に曲輪が設けられているようである。このうち登山道のある南の尾根付近の曲輪は見ることができた。
城山の南麓、登山道のあるところから東の住宅地のほうに進んでいくと「内屋敷」と呼ばれる居館跡があり、果樹園となっている部分に土塁が残っている。
国道52号線を北上し谷津交差点の北を北西方向に入ってそのまま城山の麓に達すると案内板がある。
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