永禄11年(1568年)武田氏によって築かれたと云われる。
古くは南北朝時代の正平6年・観応2年(1351年)に足利尊氏と足利直義の軍勢で合戦の地になっている。
永禄11年(1568年)駿河に侵攻した武田信玄が、今川氏と同盟関係にある小田原北条氏の援軍に備えて築いた砦である。武田氏は駿府を落とし、今川氏真を遠江国掛川城へと追ったが、今川氏救援のために小田原北条氏は蒲原城へ入り、さらに薩埵峠を押さえる為に押し寄せてきた。武田氏と北条氏は三ヶ月もの間、薩埵峠で睨み合ったが、武田氏は駿河から撤退することとなった。
薩タ山砦は薩埵峠の上にある尾根に築かれているという。 薩埵峠は東海道五十三次「由井」に描かれた地で、晴れていれば富士山がよく見えると云うが、残念ながら峠からは拝むことができなかった。
薩タ山砦は薩埵峠から浜石岳へ続くハイキングコースの山道沿いにあるので、「静岡県の中世城館跡」に掲載されている遺跡範囲をもとに遺構を探しまくったのだが、明確に城郭遺構と思える場所が見つからなかった。
「静岡県の中世城館跡」によれば「清水市と由比町の境にあり、山の頂(標高420m余)を中心として尾根を利用して構築され、全長500mに及び、中心付近に長さ40m、幅1.5mの土塁が明瞭に残る。」とある。ここで標高420mとあるのだが、遺跡範囲として記の付いている所は標高350m前後の所になっている。結局440m付近にある鉄塔周辺まで登ってみたのだが、平坦面は無数にありわからず、唯一城郭遺構のような地形がお城マークを付けている標高350mの尾根付近で、尾根の南東下に巨大な空堀と外側にある削り残した土塁のような地形がある。尾根側には階段状の帯曲輪のような地形がある。
薩埵峠は興津町と由比町の両側から道標があり、峠には駐車場がある。(地図)
ここから浜石岳へ続くハイキングコースで、空堀は木の階段を登ったあと、いったん降る地形になった所である。
最寄り駅(直線距離)