築城年代は定かではないが今川氏によって築かれたと考えられている。 一説に藤原氏から出た蒲原氏の居城とするが、それを示す史料はない。
天文年間(1532年〜1555年)には富士川を挟んで今川氏と小田原北条氏が戦っており、天文14年(1545年)頃には今川氏の重臣で遠江国引馬城主の飯尾豊前守乗連等が城番として詰めていた。
永禄11年(1568年)武田信玄は徳川家康と結んで駿河に侵攻し駿府は陥落、今川氏真は遠江国掛川城へと落ちのびた。このとき武田氏は蒲原城を攻め落とさずに駿府へ侵攻したため、蒲原城には今川氏の家臣がおり、援軍として駆けつけた北条氏の軍勢が入城した。翌永禄12年には遠江国掛川城の今川氏真を降伏させた徳川家康が駿府に入り、武田氏は駿河から退いた。しかし、同年末に武田氏は再び駿河へ侵攻し、今度は北条氏信らが籠もる蒲原城へ攻め寄せ落城。北条氏信(北条幻庵の次男)以下、北条長順(氏信の弟)、清水新七郎(清水康英嫡子)、狩野介といった武将が討死した。
蒲原城は標高149mの城山に築かれており、現在は城跡公園として整備されている。
主郭は山頂にあって南北に長く神社が祀られている。主郭の北東に大きな空堀があり、その先に善福寺曲輪がある。この善福寺曲輪には逆茂木や櫓風の展望台などが設置されている。西側から南側にかけて土塁が付いており、切岸部分にも腰巻状に石積がある。
善福寺曲輪の北下は土塁が巡らされた腰曲輪のような空間が広がっているが、削平地ではなく自然地形を残す。この辺りは公園として整備されたときに、だいぶ手が入っているヨウ感じる。
主郭から南東へ伸びる尾根に、一条の堀切があり、その先は不整形な小段が続く。南西側の尾根も整備されていないが、切岸加工された曲輪が続き、降りていくと畑地に出る。
新蒲原駅の北側の県道396号線を西へ200m程進むと、北の山上に登っていく車道があり、そこに道標が出ている。この道を登り切った辺りに西側に蒲原城の看板があり、そこに駐車場がある。その先には曲輪の名になっている善福寺があるが、今は個人宅のような小さなお寺である。
最寄り駅(直線距離)