宝永元年(1704年)滝脇松平信治によって築かれた。 滝脇松平氏は三河十八松平の一つ滝脇城主松平乗清を祖とする。
松平正勝は徳川家康の書院番として仕えた千二百石の旗本であったが大坂夏の陣で討死、摂津国高槻藩主(形原)松平紀伊守家信の二男重信を養子に迎えた。重信は明暦2年(1656年)駿府城代となり五千石を領した。重信の跡は丹波篠山藩主(形原)松平駿河守典信の子信孝が継ぎ、元禄元年(1688年)徳川綱吉の側衆となり一万石を領して諸侯に列した。信孝の跡は戸田和泉守重恒の二男信治が継ぎ、元禄11年(1698年)武蔵・上野の所領を駿河の有渡・庵原・安倍郡に移され宝永元年(1704年)庵原郡小島村に陣屋を構えた。
以後明治まで続いたが明治元年(1868年)徳川家達が駿府城にて七十万石の一大名となると、10代藩主松平信敏は上総国望陀郡桜井に転封となった。
小島陣屋は興津宿から甲州街道に至る身延街道を見下ろす西側の丘陵に築かれている。
小島陣屋は南へ延びた丘陵にあり、興津川へ注ぐ支流が西から南を流れている。 丘陵の一番高所に御殿が設けられ、東側と南側の側面に石垣があり、大手は南東にあって枡形虎口がある。周囲は宅地で御殿跡周辺は畑となっている。
大半の建物は取り壊されたが書院が小学校の校舎として使用され、現在国道52号線沿いにある小島町文化財資料館として移築現存している。
現在は書院の再移築を含めた整備工事中であった。
書院(移築 書院)
国道52号線小島南交差点付近から道標がある。
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