築城年代は定かではない。 平原城は一般的に己斐城と呼ばれるが、己斐新城が平原城、己斐古城が岩原城、詰城が立石城でありいずれも己斐氏の居城である。
己斐氏は厳島神領衆の出身で動静ははっきりしていない 永正12年(1515年)銀山城主武田元繁に攻められるが落城しなかった。時の城主己斐豊後守師道入道宗端は有田城合戦で討死した。
その子豊後守直之は厳島合戦の折り毛利方として草津城主新里氏とともに宮尾城に籠城している。関ヶ原合戦後に毛利氏が防長2ヶ国に転封になるとともに廃城となった。
己斐平原城は己斐東小学校の背後に聳える標高199.7mの茶臼山に築かれており、現在は登山道が整備されている。一般的に立石城のある大茶臼山に対して小茶臼山と呼ばれている山である。
山頂の本丸、南西に小さな空堀を挟んで二の丸、その周囲に北郭、東郭、南郭、西郭と呼ばれる曲輪群が取り巻いている。東と北の尾根はそれぞれ三重堀切で遮断し、西と南はわずかながら堀らしき痕跡が確認できる程度ではっきりしない。
登山道は県道沿いの己斐東小学校への入口脇にある。また北や西からも道が付いている。
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