弘治元年(1555年)毛利元就によって築かれた。 天文22年(1553年)大内義隆が家臣陶晴賢に滅ぼされると義隆の姉婿である石見国津和野城の吉見正頼は陶氏打倒に立ちあがる。 陶氏、吉見氏双方から味方に付くように催促のあった毛利元就は意を決し陶氏を討つ為に挙兵した。
元就は安芸国南部の諸城を落とし宮尾城を築くとともに草津城・仁保城・桜尾城などの整備を行った。
陶軍約二万は宮尾城攻略のため厳島に上陸し勝山城に本陣を置き、さらに本陣を塔の岡へ進め籠城する宮尾城を攻め寄せた。これに対する籠城兵はわずかに300名余りであった。
元就は能島、来島、因島の三島村上水軍を味方に付ける事に成功しする。小早川隆景を海路から、元就・吉川元春が率いる主力は包ヶ浦に上陸し博奕尾を越えて陶本陣を急襲した。この結果陶晴賢は自刃し大内家は急速に没落、やがて毛利氏に駆逐された。
宮尾城は宮島港のすぐ南にある標高27.0mの小山に築かれていた。現在山頂には東屋と今伊勢神社が祀られているがこの辺りが西曲輪群、堀切か切通しとなっている東の鞍部を経て東の山頂部が東曲輪群である。全体的に急峻な地形ではあるものの、遺構としては帯曲輪程度しかない。
宮島港から厳島神社に向かう途中に登り口がある。
最寄り駅(直線距離)