築城年代は定かではない。源平合戦の時は源氏方の佐々木国正の居城であったとも云われるが、現在の遺構は戦国期のものである。
水晶城という名称は江戸時代のもので城跡から水晶がよく取れることに由来する。同時代史料には石道本城や石道新城という城が登場するが、これを同一視する説や別城とする説などがある。
周防の大内氏は永正17年(1520年)に厳島神主領を直接支配するようになり、石道本城に杉甲斐守を置いて城番とし武田氏に備えていた。大永3年(1523年)大内氏の裁定に不満をつのらせていた友田興藤は自ら神主家を称して武田氏の助力を得て石道本城を攻撃、杉甲斐守は城を脱したが廿日市後小路で討ち取られた。
天文年間(1532年~1555年)には大内義隆の家臣麻生鎮里が在番していたが、陶晴賢と毛利元就の対立によって、毛利勢が佐伯郡に侵攻してくると麻生鎮里は毛利方に降伏した。
水晶城は臼山八幡神社西側の丘陵一帯に築かれている。
城の中心は主郭I1から南、南東に伸びる尾根に築かれた曲輪群で麓まで連なっている。 主郭の北背後は二重堀切10を起点に東は竪堀群11、12など竪堀が伸び、その下方は通路を兼ねた横堀2に接続して曲輪群IIIの下方を巡る。横堀2の途中には畝状竪堀に群1が東の谷に向かって長く伸びている。
主郭部Iから南へ伸びた尾根は曲輪II1の下方から東西二つの尾根に分かれる。東の尾根は曲輪II2が広く、その下方に二重堀切2と竪堀群を設けてある。一方西の尾根も細長いII5の下方に堀切7を設け、東の谷筋に向かって畝状竪堀群5を設けている。さらに可能に曲輪群VIIがあり、その南方にはVIIIがあるが、この部分の地形は改変されており堀6の部分に名残を留める。
この南谷の麓近くに曲輪IVがあり、中央に虎口状の開口部を備えているが、現在は東へ迂回して登るルート(登口2)が接続している。この曲輪IVからII3を経てII1の折れ曲がった虎口に続くルートは城道の可能性が高いと考えられる。
主郭部Iの北背後に伸びる尾根に曲輪群XがありX1が中心と考えられる。主郭部に近いX3の周辺には土塁が点在しているが、後世の改変も加わってどのような意図の土塁なのか判然としない。城域の北端となるX4北背後の尾根には西側に二条、東側に四条の竪堀群13が確認できる。尾根上は後世の山仕事路によって土橋状に改変されており、左右対称にある二条の竪堀部分は堀切だった可能性がある。ちなみにここから北へ離れた鉄塔のある峰の北側に堀切らしき溝が確認できるが、加工が少なく城郭遺構かどうか不明であった。
主要な曲輪群の東側の尾根、臼山八幡神社の北背後に小規模な城E1がある。単郭の城で高い切岸が巡り、切岸下方は一部横堀となって畝状竪堀群が落ちている。出丸とすることも可能ではあるが、このような城は広島県に多くあることから、西側の大規模な水晶城ができる前の水晶城ではないだろうか。
また、南西に伸びた尾根にも加工された削平地A群、B群、C群がある。A群は峰の東側を土塁状に残して西側を削平してあるが、削平の仕方や溝があることなどから農地である。B群は山頂付近の削平は城郭遺構として違和感はないが、東側の段々は農地のようである。C群は加工が少なく切岸も低いが駐屯地としては利用可能である。水晶城周辺の地形を観察すると尾根上を削平した地形が点在して確認できることから、堀のないこの南西尾根部分を積極的に城郭遺構と判断するのは難しい。
登口はいくつかあるが臼山八幡神社からの道がわかりやすい。神社に駐車可能でトイレもある。
登山道はマークだよりでわかりにくいが、竹林V9に入ると右奥のV1を目指し、そこからII1、VI1を経て背後の二重堀切10に居たり、そこからI3、I2、I1と登るルートが正しい。V7からV1に登って行くあたりには城の名の由来となった水晶が今でも落ちている。
最寄り駅(直線距離)