築城年代は定かではないが有田氏によって築かれたと云われる。
有田氏は山県氏一族で壬生城壬生氏、今田城今田氏と同族、永正年間(1504年~1521年)には武田氏に従っていた。
永正12年(1515年)武田元繁は大内氏から離反して勢力拡大を狙い己斐城を攻めた。大内義興は毛利興元や吉川興経を援軍として派遣した。大内方は武田氏の己斐城攻めに参陣していた山県氏の所領を攻め有田城を攻め落とした。武田氏は己斐城攻めを中断して有田城奪還を試みたが攻め落とせず退却した。
永正14年(1517年)毛利興元が没すると、武田元繁は有田城奪還に乗り出し今田に布陣、毛利氏は幸松丸の後見人となった毛利元就が出陣した。有田城には吉川氏の武将小田信忠が入って守りを固めていたが、この戦いで総大将武田元繁が流れ矢に当たって討死にすると武田方は総崩れとなり毛利・吉川軍の勝利となった。
有田城は八重東小学校の西背後に聳える山の南端に築かれており、現在は公園として整備され遊歩道が設置されている。
南北に長い山の南端部分に築かれた城で、曲輪は東西に長く展開しており変わった縄張りになっている。
最高所は東端の曲輪IIIであるが、小規模で傾斜しており主郭のようには思えない。ここには「茗荷丸」の石碑がある。
「本丸」の石碑がたつのは曲輪Iで小規模ながら十分削平されている。この曲輪の北端から土塁が続いて曲輪IIの北側を回っている。
主郭部の南下には東西に長い曲輪IV、Vがあり間に焼米が出土したという場所がある。曲輪Vの下には曲輪VIがあり、西側の谷筋が緩やかである。このあたりが大手筋だろうか。
北背後は土塁と切岸であるが、そこから少し離れた場所に堀切とされる溝がある。有田八幡宮から続く遊歩道から山を乗り越すような形で存在しており、山道の可能性がある。
有田八幡宮へ続く細い道の先に広い駐車場があり案内板が設置されている。