詳細不明。城主は温科左衛門家行と伝えられる。 温科氏は鎌倉時代末期に安芸に下向した金子氏が在地名を名乗ったのが始まりとも云われるが定かではない。 金子氏は桓武平氏で武蔵七党の一つ村山党の庶家。村上頼任が武蔵国入間郡金子郷に居住して金子氏を称したことに始まる。 安芸に下った金子氏は玖村(現在の安佐北区落合)に下り恵下山城に籠もったとも伝えられるが不明である。また、金子慈蓮が承久3年(1221年)に承久の乱の功によって安芸国温科村地頭職を得ている。 文末に抜粋している安芸国諸城主連署契状には、金子勘解由左衛門信親と温科出羽守親理の名が残っている。
明応8年(1499年)温科国親は武田伊豆守元信に叛乱を企てたが、武田氏によって鎮圧され温科氏は滅亡した。このとき、武田氏は毛利治部少輔弘元に援軍を求めており、鎮圧に功のあった熊谷民部丞膳直に馬木村が与えられた。(毛利家文書168,熊谷家文書119)
以下、毛利家文書24より抜粋。
応永11年9月23日安芸国諸城主連署契状(安芸国国人一揆契状)
小河内沙弥妙語,
郷原修理亮清泰,
窪角左近蔵人氏則,
横山右近蔵人高実,
山県八郎左衛門尉親正
久芳上野守秀清,
児玉豊前守広家,
長江丹後守景光,
忍次郎右衛門尉景貞,
遠藤修理亮直俊
横山若狭守高経,
市河左近将監信貞,
金子勘解由左衛門信親,
宍戸右近亮在家,
井原美作守在教
香河修理亮之正,
三須次郎兵衛尉忠清,
毛利越後守元衡,
毛利大江親秀,
毛利沙弥宗護
品河近江守実久,
熊谷沙弥直会,
温科出羽守親理,
天野沙弥昌儀,
伴兵部大夫経房
毛利大江広身,
小幡山城守親行,
厳島安芸守親頼,
毛利備中守之房,
平賀沙弥妙章
天野式部大輔宗政,
能富刑部少輔重氏,
のうみちくせん■■
永町山城は温科川東岸の比高26m程の小山に築かれている。 比高はさほどないが四方急峻な地形になっている。
山上は四段ほどの削平地がある程度で特に見るべき所はない。東側は道路になっているが、ここに堀切が検出されている。背後にあった北谷山城(消滅)を詰城とした居館タイプの城と見られている。
県道70号線、安芸府中道路中入口交差点から温品料金所に向かう途中にある小山が城跡。
最寄り駅(直線距離)