二宮就辰の屋敷と伝えられている地である。二宮氏は甲斐国発祥で山県郡に下向し吉川氏に仕えていた。その後、就辰父春久が毛利元就に仕えるようになり、この時代に馬木村に本拠を移したと考えられている。就辰は実は毛利元就の子と云われ、母である矢田氏の女が毛利元就の側室であったが、元就の子を懐妊中に春久に嫁ぐことを命じられ、出生した就辰は春久の子として育てられた。
就辰は広島城の築城や、郡山から広島へ抜ける三篠川沿いの街道整備などを行い、関ヶ原合戦後に防長二ヶ国に減封となると、周防国佐波郡佐波江へ移り、萩城の普請奉行を勤めた。
二宮就辰屋敷は現在宅地となっている。安芸町誌には石垣の写真が掲載されているが、今はコンクリートで固められており、その周囲に残る石垣も後世のもののようである。