『芸藩通志』では吉川興経や奥西仲綱のが城主として登場するが、吉川興経は幽閉の身であり、奥西はどのような人物なのか知られていない。
『安芸の城館 城館50選と安芸の城館の実像』によれば、武田氏の支城の一つとして登場する「木嶺城」がこの木の宗山城であり、大永年間(1521年~1528年)に大内氏が大友氏の援軍を得て武田氏を攻めたときに登場する。
木の宗山城は広島東ICの北に聳える標高412.7mの木の宗山に築かれており、現在は登山道が整備されている。眺望はよく、武田氏の銀山城や八木氏の八木城、広島湾、白木街道などか望めるが、熊谷氏の高松山城は見えない。
主郭は山頂にあり東西二段で岩が多く露出しているものの比較的丁寧に削平されている。
自然の鞍部を利用した堀状区画で隔てた東側に城内で最も広い曲輪IIがある。削平は甘く大小の段差はあるが東端に土塁を伴っている。
東尾根は二重堀切3を超えて小規模な曲輪群III、IVと続くが、その下方に畝状竪堀群2と堀切1が確認できる。
南西尾根は曲輪Iの下方に岩盤を削った小段が続くが、その下は自然尾根がしばらく続き、畝状竪堀群4がある。
北西尾根にも小規模な段曲輪が続いており先端は崖尾根になる。
登山道はいくつか存在する。
西麓の三田ヶ峠からだと「木の宗山 憩いの森」に駐車可能で、登山口に道標が出ている。
銅鐸銅剣出土地は分岐点よりかなり下った所にあるので、下山時にそのまま降りる感じで行くのが良い。
最寄り駅(直線距離)