築城年代は定かではない。熊谷氏が居城とする以前に二階堂是藤が居たと云われ、熊谷直時によって追い出されたと云われる。
熊谷氏が伊勢が坪城からこの高松山城に居城を移した時期は詳らかではないが、熊谷信直の頃と考えられている。熊谷氏は安芸国守護職武田氏に従って各地を転戦し、その所領を増やしたが、永正14年(1517年)武田元繁に従って出陣した熊谷元直は有田合戦で毛利・吉川の軍勢に敗れて討死、このとき武田元繁はじめ、八木城主香川行景、己斐城主己斐宗瑞なども討死し、やがて安芸武田氏は滅亡する。
その後、熊谷信直の時に毛利氏に従い、信直の娘は毛利元就の二男吉川元春に嫁いでいる。毛利氏の勢力拡大とともに熊谷氏の所領も増えたが、関ヶ原合戦で敗れ、毛利氏が防長二カ国に減封となると、それに従いこの地を去った。
高松山城は標高338.7mの高松山に築かれている。現在は県指定史跡となり、登山道が整備されている。
主郭は山頂にあり東西に長く、東端は鐘の段となる。主郭の周辺には石積跡がところどころ残り、一部直線的な張り出しのような地形も残されている。
主郭から南西に伸びた尾根に高松神社があり、三の丸とされている。ここから尾根先に向かって不明瞭な小さな段曲輪が続き、西端に大きな堀切2がある。この辺りが大文字祭の場所となる。
主郭の南下に馬場と呼ばれる曲輪ii-3があり石組み井戸がある。ここから南尾根の与助丸(iv-2)に続く道側に石垣跡があり、崩れているが整った石垣だったと思われる。堀切3を経て与助丸を南に進むと、曲輪iv-3がある。ここの西側に小さいながらも石積を備えた桝形状空間を持つ虎口がある。この曲輪の周辺には石積跡が随所に残っており、南の二重堀切を守る重要な曲輪であったようだ。堀切4は外側が大堀切、内側は細長く浅い堀切となっている。
主郭から北東へ下ったとこに広く削平された曲輪iii-1がある。この曲輪の東下に大きめの畝状竪堀群5があり、この上部を現在の登山道が通っている。ここが曲輪iii-2、3、4と堀切を挟んで細かく続いているが、曲輪iii-2の側面に石積4、堀切8の土橋北側に石積5がある。曲輪iii-4から東の峠に向かって伸びる尾根は堀切9で遮断しているが、北へ続く尾根は切岸も曖昧で、少し下ったところから堀底道が北尾根に続いている。こちらが大手であろうか。この北尾根を下ると熊谷氏の土居屋敷があるが、北東に伸びた峰に砦と思われる遺構がある。
登山口はいくつかあるが、わかりやすいのを二つ。
南西麓の川沿いに墓地があり、そこから登ると途中で谷筋と尾根道に分岐する。尾根道を選択すれば与助丸経由で馬場、三の丸に至る。入口に駐車可能。
もう一つは東側の峠のところから登るルートでこちらも入口脇の林道入口に駐車可能。
最寄り駅(直線距離)