『芸藩通志』では「亀崎山 下深川村、中深川村との界にあり、井尻又兵衛 一に民部 和重、所守、」とある。
『日本城郭大系』によれば、井尻氏は大永年間(1521年~1528年)に深川を知行したが、天文21年(1552年)には三吉氏が深川を知行しており、井尻氏の動向は不明という。
亀崎城は現在の亀崎中学校の辺りに築かれていたが、高陽ニュータウン建設によって削平され遺構は消滅している。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』によれば、山頂の主郭の周囲に腰曲輪があり、南西尾根を堀切で遮断、他の側面には竪堀が放射線状に六条設けられていたようである。出土遺物から室町後期から戦国時代に存続したと考えられている。