築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)はじめに佐々成宗によって築かれたと云われる。 成宗は佐々成政の父で、はじめ井関城を居城としていたが天文年間(1532年〜1555年)はじめに比良城を築いて移ったとされ、この城で佐々成政は生まれた。成政の生年は諸説あるが、天文5年(1536年)とする説が多い。
天正3年(1575年)佐々成政は府中三人衆の一人として越前国小丸城主となり、天正9年(1581年)には越中国に入部して富山城主となった。本能寺の変の後は柴田勝家、小牧長久手合戦では織田信雄・徳川家康に味方して羽柴秀吉に対抗したが、天正13年(1585年)居城の富山城を秀吉の大軍に包囲され降伏した。天正15年(1587年)には九州征伐ののち肥後一国を与えられたが、検地を実施して国人の反乱を呼び、肥後国人一揆が勃発、その責任を問われ摂津国尼崎の法園寺(摂津大覚寺城参照)にて切腹させられた。
比良城が廃城になった時期は定かではないが、佐々成政が越前国へ移った後も三男で早川主水の女との間に生まれた雄助が残り、母方の早川姓を名乗っていたという。
比良城は現在の光通寺一帯に築かれていた。遺構はないが、かつては東西68m、南北72mの規模で二重堀が巡っていたという。
現在境内の奥に佐々成政城址の石碑と成政の供養塔が建っている。