織田信秀の家老で信長の補佐役として林秀貞に次ぐ地位にあった平手政秀の城であったという。
天文2年(1533年)山科言継が尾張へ下向した際には政秀宅で歓待され、「種々造作驚目候了、数奇之座敷一段也」と評されている。
信長の付家老になってからは元服や初陣、道三の女との婚姻などに奔走した。しかし、天文22年(1553年)平手政秀は突如自刃して果てた。その理由は信長の奇行を諌めるためというのが一般的である。
志賀城は現在の志賀公園付近に築かれていた。遺構はないが公園内に平手政秀宅跡の石碑と案内板が建っている。