築城年代は定かではないが天文12年(1543年)神保長職によって築かれたと云われる。 天文12年(1543年)越中守護代である神保長職は越後上杉謙信に従っていた新川郡守護代の松倉城主の椎名氏に対抗するため、家臣の水越勝重に命じて富山城を築いたのが始まりとされる。
永禄3年(1560年)勢力を増大していた長職は椎名康胤を圧迫していくが、上杉謙信がこれを助ける為に越中へ出兵すると、長職は富山城を捨てて増山城へ逃れた。
その後は上杉氏と一向一揆との間で争われたが、天正6年(1578年)上杉謙信が没すると天正8年(1580年)織田信長の後楯を得た神保長住が飛騨より侵攻し、富山城を回復した。 しかし、長住は天正10年(1582年)旧臣の小島職鎮や唐人親広らに富山城を急襲され幽閉の身となった。間もなく織田軍によって解放されたが、これにより長住は失脚し富山城には佐々成政が入城した。
天正12年(1584年)佐々成政は小牧長久手の合戦が始まると、当初は秀吉に味方するそぶりを見せたが間もなく加賀の前田利家の領地へ攻め込み、末森城合戦が起こった。小牧長久手合戦が終結した翌天正13年(1585年)秀吉が大軍を率いて越中へ攻め込んでくると、加賀の前田氏と争っていた国境の兵力を富山城に集結して籠城したが降伏し、佐々成政は肥後国熊本へ転封となった。
慶長2年(1597年)前田利長は守山城から富山城へ移ったが、翌慶長3年(1598年)父前田利家の隠居によって家督を継ぎ金沢へ移った。慶長10年(1605年)利長は隠居して富山城へ移ったが、慶長14年(1609年)に火災によって主要な建物を失った為、魚津城へ移り、高岡城を築いて居城とした。
寛永16年(1639年)前田利常が隠居すると、次男利次に富山十万石、三男利治に大聖寺七万石が分知された。利次は婦負郡百塚に築城を願い出て許可を受けたが、財政難によって築城は中止となり、加賀藩領であった富山城を譲り受けてその居城となり、以後加賀藩の支藩として富山藩前田氏が代々続いた。
富山城は現在の富山県庁の南側にあり、富山城址公園として整備されている。本丸大手桝形に築かれている模擬天守は昭和29年に建設された富山市郷土博物館で、国の登録文化財になっている。
かつては神通川が城の北側を蛇行して流れており、天然の堀となっていた。 本丸は現在の公園の東側部分で、東に東出丸、西に西出丸、南に二ノ丸、それらを取り囲むように三ノ丸があった。
富山城は大部分が土塁で、石垣は本丸南虎口、東虎口、二ノ丸虎口など特に重要な部分のみであった。近年唯一の現存建物であった千歳御門が城の東側に再移築されたが、本来土塁で虎口でもなかった部分に移築されている。また、その南側は公園地下に造られた駐車場の入口になっている。
千歳御門(移築 城門)
天守(模擬 天守)