築城年代は定かではない。
嘉吉元年(1441年)に神保八郎左衛門が居城していたと伝えられる。
天文年間(1532年〜1555年)に神保長職が富崎城を居城としていた。永禄年間(1558年〜1570年)に長職は上杉謙信に攻められ蓮花寺の深沼で討死したと伝えられていたが、実際には永禄5年(1562年)に上杉謙信に降り増山城へ移ったという。
その後、上杉氏の支城として利用された。天正6年(1578年)に上杉謙信が没すると、織田信長に仕えていた神保長住が織田氏の先陣として飛騨より越中へ侵攻し、上杉勢と戦った。天正9年(1581年)長職の旧臣寺嶋牛之助・小島甚助らが織田氏に対して挙兵、富崎城を本拠に織田氏に対抗したが、同年5月富崎城を攻められると城に火を放ち大道城へと逃れた。
富崎城は山田川に面した台地の北端に築かれている。 山田川に面した急峻な北側を背後に背負うように北に主郭、南に二郭を構え、主郭と二郭を隔てる内堀、二郭の外を巡る外堀が現存している。
主郭と二郭との間は空堀で区画され、馬出とみられる土橋と円形の段が確認できるが、不明瞭である。主郭には神保城の石碑があり素堀の井戸が残る。
富崎城から本覚寺方面に行くと「富崎古墳群」の案内板がある。ここから中に入ると、土塁と堀が巡らされた遺構がある。ここも富崎城の一部であったのだろうか。
城山中学校の南西の丘陵が富崎城。東麓に神保氏所縁の本覚寺がある。寺の脇から丘の夢牧場へと続く道、牧場門脇付近から北方を見ると城の案内板が見える。
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