築城年代は定かではない。城主は神保家臣寺嶋牛之助、小島(寺嶋)甚助が伝えられる。
天正年間(1573年〜1592年)に上杉謙信が没した後、織田信長に仕えていた神保長住が飛騨より越中へ侵攻し、上杉勢と戦った。このときこの大道城が現在の状態へと改修されたと推測されている。
天正9年(1581年)神保長職の旧臣寺嶋牛之助と小島(寺嶋)甚助は、富崎城を拠点に織田氏に対抗したが、富崎城を攻められたため、城を焼き払ってこの大道城へ逃れてきた。その後、佐々成政に降っている。
大道城は旧山田村と旧八尾町にまたがる標高639.3mの山頂に築かれており、越中国でも特に高所にある山城である。
人里離れた高い山にあり、城の規模は決して大きくはないが、横堀や横矢を意識した櫓台の張り出しなど戦国時代末期の縄張りで遺構の状態も良い。
主郭は山頂にあり東西二段で削平状態は余り良くない。北と南の一部に土塁が付き、西を除く三方は横堀が巡っている。虎口は南北とも中央にあり、北が大手、南が搦め手であろう。
主郭の北虎口は土塁中央が開口し東側が櫓台となる。外側は空堀で土橋が架かる。外側は腰曲輪で主郭の北側を覆い北に土塁が付く。この腰曲輪はやや西よりにあり、土塁は内折れになって開口し、外側は同じく空堀に土橋が架かる。この虎口は東側が櫓台状になって外側へ張り出し、土橋に横矢が架かる。土橋の外側には大きな窪地があり井戸跡のようである。
主郭の南虎口も中央にあり、内側が窪んでおり桝形と表現している。しかし、地形は曖昧で桝形なのかはっきりしない。こちらも外側は空堀となり土橋が架かる。主郭の南の曲輪は段が付くやや広い空間で、ここにも大きな窪地があり井戸跡という。曲輪の南側はやや浅めの空堀が東西に走り、さらに下方にも空堀が付く。この空堀は尾根沿いに横堀となり、東端で屈折して東側側面へと続いている。
北北東約1.1kmの尾根先にある「門口の門」はこの大道城の大手門跡だと伝えられている。
城のすぐ南下まで林道があり、車では登ることはできないが比較的楽に登ることができる。
登山口は城山の西麓山田谷集落と東麓の八尾町とを結ぶ林道の途中にある。山田谷側からだと南部公民館を過ぎて少し南下すると数納、鍋谷、四十ヶ滝とやまの滝、牛岳登山口などの標識のある交差点がある。ここから山側へと鋭角へ曲がり登っていく道が八尾町へと繋がる林道の入口である。この林道をしばらく走ると大道城への案内板があり、この辺りに車を駐めて歩くことになる。(登山道入口で案内板のある所の地図)
最寄り駅(直線距離)