築城年代は定かではないが二宮氏によって築かれたと云われる。 二宮氏は越中の在地豪族で、文和4年(1355年)桃井直常に代わって戦死した二宮兵庫の名が太平記に記されている。
天文年間(1532年〜1555年)の城主は二宮右衛門大夫三宅、天正年間(1573年〜1592年)の城主は二宮左衛門大夫(余五郎)という。
二宮氏は元亀3年(1571年)上杉氏の家臣村田修理亮の家臣村田弥三郎、安達清蔵などが籠もる津毛城を攻めた。城より打って出た安達を討ち勢いに乗じて津毛城の城門の七曲坂まで攻め寄せたが、落とすことができなかった。天正年間(1573年〜1592年)にも樫木城主村田修理亮と昼も夜も休まず戦ったと伝えられる。
二宮氏は一時上杉氏に従っていたが、織田信長に仕えていた神保長住が越中に入国するとそれに従って知行安堵を受けている。
上熊野城は上熊野公民館近くにある浄蓮寺および神明社一帯に築かれていたという。 現在はわずかに神明社の裏に土塁の残欠が残るのみである。