築城年代は定かではないが、斎藤氏によって築かれたと云われる。 斎藤氏は南北朝時代の斎藤左衛門大夫入道常喜が、婦負郡楡原保一帯を所領として以来の豪族で、戦国時代末期に斎藤信利が織田信長の武将佐々成政によって追われるまで、この辺り一帯に勢力を持っていた。
天文21年(15552年)上杉氏に属していた願海寺城主寺崎民部左衛門盛永と天神林付近で戦って敗れ、井田館はこのとき落城したという。
その後、上杉氏に属していたが天正6年(1578年)に上杉謙信が没すると、飛騨から侵攻した織田氏に従い、上杉方の今泉城攻めなどで戦功を挙げた。しかし、天正9年(1581年)には弓庄城主土肥氏とともに上杉氏と結び織田の武将佐々成政に敵対する。天正11年(1583年)佐々成政と神保氏張の軍勢によって城生城は攻められ落城、城主斎藤信利は姉小路頼綱を頼って飛騨へ逃れ、後に徳川家康に仕えて江戸時代は旗本として続いた。
斎藤氏の後は、佐々成政の家臣佐々與左衞門、前田氏の家臣青山佐渡・篠島織部と続いた。
城生城は神通川とその支流である土川に挟まれた台地の上に築かれている。
主郭部は南方の頂部で南北に細長い曲輪に土塁が付き、城生斎藤家城址の石碑が建っている。そこから北西へ土塁が伸び、主郭部の広い曲輪がある。 この主郭部の西下から南下にかけて巨大な空堀が巡り、東斜面は神通川に面した急斜面でありながら、大きな竪堀がいくつか付いている。
空堀を挟んで南側には周囲を土塁で囲んだ曲輪があり、巨大な空堀側に虎口を開く。その西下、南下にある曲輪が大手ルートで、小さな曲輪を折れながら二度通り抜ける構造である。
主郭から北へ伸びた台地には南北に分断する空堀が二ヶ所あり、外側は土塁が付いて櫓台状の高まりが残る。さらに北方には屋敷跡のように土塁・石塁で区画された地形が残されている。北端は首切り場跡というのがあるようだが確認できず、北へ降りていく道は崩落のためか通行止めになっている。
県道25号線沿いに案内板と標柱が建っている。ただ入口付近に駐車スペースが全くなく、車を駐める所を探すのに苦労する。
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