築城年代は定かではないが畠山氏によって築かれたと云われる。 天文19年(1550年)の城主は畠山義続の家臣土肥但馬であった。
天正5年(1577年)上杉謙信は七尾城を落とした後、末森城に侵攻してこれを落とし七尾城に援軍として来援した織田方と手取川で戦った。
前田利家が能登に入封となると、家臣奥村永福が城番となり、土肥但馬の一族が附属した。天正12年(1584年)越中国の佐々成政は能登を急襲して末森城を囲み、坪井山砦に本陣を構えて攻めかけた。土肥伊予などは吉田口で討死し、三の丸・二の丸も落ち、本丸を残すのみとなったが、奥村永福は頑強に防戦した。末森城の急襲を知った前田利家は、松任城の前田利勝に出陣を命じ、単身出撃して津幡城に入り、松任の軍勢と合流した。利家は末森城を包囲している佐々軍の背後に回り込んで攻撃したので、佐々軍は壊滅し、利家は末森城に入城して成政に備えた。成政は坪井山砦の本陣で体制を整えたが、利家が末森城に入って防備を整えた事を知ると攻撃を断念して越中に引き上げた。