築城年代は定かではないが畠山氏によって築かれた。 能登畠山氏は室町幕府の要職である三管領の一家畠山氏の庶家で、畠山基国の次男畠山満慶を祖とする。
初代畠山満慶は次男であったが、父の畠山基国が没したとき兄の畠山満家が蟄居中であったがために畠山氏の家督を継いだ。しかし、後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄に返還した。これに感謝した満家は、能登一国を満慶に分与し能登畠山氏が誕生した。
満慶の後、義忠・義統と続いたが三代までは在京が多く、本格的に能登に下向したのは四代畠山義元の頃であったという。
天文年間(1532年〜1555年)の八代畠山義続の頃になると、畠山氏は内乱状態になり、次第に重臣たちの力が増していき、能登七人衆(温井紹春・遊佐続光・遊佐宗円・長続連・三宅総広・平総知・伊丹続堅)と呼ばれた。 永禄9年(1566年)には九代畠山義綱は重臣たちに追放され、家督を継いだ畠山義慶もまた、天正2年(1574年)に急死(暗殺という説もある)し、家督は弟の義隆が継いだ。 こうしたなか、越後上杉謙信は越中から能登へと勢力を広げ、天正4年(1576年)には七尾城を囲み、富木城・熊木城・穴水城・正院川尻城など周囲の支城を攻略していった。 天正5年(1577年)ついに重臣遊佐続光が内応し、上杉の兵を城内に引き入れ七尾城は落城した。
上杉氏が七尾城を落とした後は、鯵坂長実が城代として置かれ、遊佐続光とともに支配した。しかし、天正9年(1581年)には織田信長の軍勢により支配され、能登は前田利家に与えられた。利家はいったん七尾城に入ったが、小丸山城を築いて移り、さらには金沢城へ移った。
城門(移築 城門)
県道177号線で本丸の直ぐ下にある駐車場まで登ることができる。登山道は七尾城史料館の懐古館飯田家の所から登山道が整備されている。
最寄り駅(直線距離)