天文15年(1546年)頃に一向一揆の拠点として金沢御堂が建立され、尾山御坊とあったのが始まりである。
織田信長の北陸平定によって佐久間盛政が加賀のうち十三万石を領して入部すると、尾山御坊を解体して尾山城を築いた。しかし、天正11(1583年)賎ヶ岳合戦で佐久間盛政は囚われの身となって処刑され、加賀は前田利家に与えられた。
金沢城は前田利家の入部後にさらに大きく改修され、完成したのは三代前田利常の頃であったという。以降、加賀百万石の居城として明治まで存続するが、慶長7年(1602年)には落雷によって天守が焼失、元和6年(1620年)本丸が焼失、寛永8年(1631年)にも本丸が焼失し、以降次第に二の丸に機能が移されはじめた。宝暦9年(1759年)の火災によって本丸は機能を失い、二の丸が城の中心となっている。
金沢城は標高59.8mの小山を利用した平山城で、現在は金沢城公園として整備されている。
金沢城の本丸は早くからその機能が失われたこともあって、「本丸園地」という自然の植物が生い茂った環境になっており、他の近世城郭とは違った印象を受ける。本丸の東には東の丸があり、門があったが、こちらも現状ではわからなくなっている。
城の中心となっていた二の丸には菱櫓、五十間長屋、橋爪門が復元されている。二の丸に接して鶴の丸があり、鶴丸倉庫が現存する。三の丸は大手の河北門が近年復元され、搦手の石川門は現存である。
金沢城の特徴の一つとして鉛瓦が挙げられる。鉛瓦は木を瓦状に加工し、表面を薄く伸ばした鉛で覆って瓦としたもので、このため屋根は白っぽく見える。有事の際には鉛を鉄砲玉に加工して使うことを想定、一般的な瓦より軽くなるため積雪による荷重も考慮されている。
金沢城の南東に隣接して兼六園があるが、近年玉泉院丸庭園も復元整備され、小規模な庭園で美しい。
2020年7月西の尾山神社側に鼠多門と鼠多門橋が復元された。
石川門(現存 櫓門)
三十三間長屋(現存 長屋)
有料駐車場が周辺に多数。城内は無料で菱櫓、五十間長屋のみ有料。ただし城内へ入ることができる時間帯は季節によって変わるので事前に確認が必要。
最寄り駅(直線距離)