築城年代は定かではない。建武2年(1335年)富樫高家が加賀国守護に任ぜられた後に野々市に守護所を設けたものとされる。
長享2年(1488年)富樫政親は高尾城に籠って加賀一向一揆を迎え撃ったが敗れて自刃した。その後一向一揆に加担していた富樫泰高が守護として富樫館に入ったが、守護は名目上だけで実態は一向宗門徒が握っていた。
元亀元年(1570年)富樫晴貞は織田信長と結んで兵を挙げたが、一向一揆によって攻められ伝灯寺で自刃して富樫氏は滅亡した。
現在は市街地に没して遺構は残っていない。江戸時代には土塁などがまだ残存していたというが、近代以降の耕地整理などで遺構は完全に消滅し、発掘調査によって堀跡が検出するまでは、その位置すらわからなくなっていたという。
野々市工大前駅の南側の小公園にひっそりと「富樫館」の石碑と案内板が建っている。 この辺りには富樫氏関連の館がたくさんあったようで、東には「久安殿屋敷公園」という公園があり、富樫家明ら四代が住んでいたとある。