築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)に前田利家によって築かれたと云われる。
天正12年(1585年)豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康が争うようになり小牧・長久手合戦へと発展する。これに応じて前田利家は秀吉方、佐々成政は家康方として加賀・越中を境に争うこととなり、これによって加越国境付近に城が整備された。この城は佐々成政の松根城に対抗して前田利家が築いたものと推測され、城主は不破彦三直光と伝えられる。
秀吉と家康が和議を結ぶと、佐々成政は孤立することとなり、前田利家は秀吉の援軍を受けて佐々成政を降伏させた。これによって越中の西側が前田利家の所領に組み込まれ切山城も廃城となったと推測されている。
切山城は森下川北岸にある東西に伸びた丘陵の中部に築かれており、小原道を押さえる位置に築かれている。現在は「加越国境城跡群及び道」として国指定史跡となっている。
中央の最高所に主郭があり、東西両側に虎口を開く。概ね土塁が巡り、南は張り出しを備えている。
虎口2は土橋で曲輪IIとつながる。曲輪IIは竪堀4に面した土塁スロープで曲輪IVと通じている。
虎口1は外側に虎口受けの小郭があり外枡形になる。主郭の北側は城内で最も広い曲輪III、南は曲輪IVとなる。
虎口3は堀切2に土橋が架かり右折れで入る構造。外側には曲輪VIがありその先に堀切1で遮断する。曲輪VI内は傾斜してそのまま堀切1脇を城道が通るようになっており、内桝形のような構造になっている。この曲輪VIをから入るルートが大手となる。
北東側にある竪堀5と6によっては小原越の街道を遮断していたと考えられるが、竪堀6の上部の尾根は遮断されずそのまま残されている。
東と西から林道があるが、東の林道が舗装されており距離も短い。 案内板のところに駐車可能。
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