天正4年(1576年)長与一景連によって築かれたと云われる。 景連は長氏十五代秀連の子連之の後裔で、越後国黒滝を領していた。上杉謙信が七尾城に攻め入った際に海路侵攻して川尻村に築城し居城としたのが正院川尻城である。それ以前にも城砦があったともいわれている。
長景連は天正7年(1579年)温井景隆・三宅長盛らの旧畠山家臣に攻められ、一度越後国へ逃れていたが、天正10年(1582年)には再び海路棚木城を攻略した。しかし、織田信長の部将長連龍によって攻め落とされ珠洲郡へ逃亡する途中土民に討たれて落命したという。
城は飯田湾に面して東西に伸びた丘陵に築かれている。山上は広くなだらかで平城のような空堀で区切った五つの曲輪で構成されていた。
主郭は稲荷神社の北西上にある「高要害」と呼ばれる曲輪と考えられており、ここに現在標柱が建てられている。現在大部分は畑として使用されている。
山上へ通じる道はいくつかあるようですが、稲荷神社脇から登るのがわかりやすいでしょう。標柱の建つ高要害へも道が通じているのですが、ぐるりと回り込んで到達する為、わかりづらいと思われます。位置としては稲荷神社のすぐ上あたりになります。