築城年代は定かではないが明徳年間(1390年〜1394年)から応永年間(1394年〜1428年)頃に畠山基国によって築かれたと云われる。 河内国守護職の畠山基国が北朝方の拠点として築いたのが始まりとされ、重臣の遊佐氏を置いた。
畠山持国の家督を巡る争いで、庶子義就と政長による畠山氏の内訌は、細川氏や山名氏をも巻き込み応仁の乱へと発展していく。この中で若江城は争奪の的となっいた。
天文年間(1532年〜1555年)始めには近江国守護職六角氏の家臣若江下野守兼俊が居たが、天文6年(1537年)に六角氏に叛いて攻められ落城した。その後も六角氏配下の城として存続したが、後に三好氏の城となった。
永禄11年(1568年)織田信長の裁定により若江城に三好義継、高屋城に畠山昭高が配された。天正元年(1573年)三好義継は織田信長の怒りをかって信長の武将佐久間信盛に攻められると、若江三人衆が内応して落城し、三好義継は自刃して果てた。
その後は本願寺攻めの拠点として利用されたが、天正9年(1581年)頃には廃城となっていたという。
若江城は若江小学校の北東側にある若江公民館分館を中心とする一帯に築かれていたという。 現在地表面の遺構はないようであるが、発掘調査などによって二重の堀や土塁、建物跡、井戸などが検出され、瓦、土器、武器などが出土したという。
公民館前に案内板、県道南側にも石碑などが建てられている。