建武年間(1334年〜1338年)に恩智左近満一によって築かれたと云われる。 恩智氏は河内国二宮恩智神社の社家の後裔という。
恩智左近は元弘年間(1331年〜1334年)に楠木正成に従って千早城籠城や、飯盛山城攻撃に加わり、楠公八臣の一人に数えられる。貞和4年・正平3年(1348年)楠木正行に従って四條畷に出陣し討死したという。
恩智城は恩智神社へ向かう参道の途中の南側にあり、現在は公園となっている。 公園の西側が方形に一段高くなり、ここに石碑が建っている。この辺りは小学校になっていたこともあるようで、このときにどのような地形の変更があったのかは定かではないが、この土壇が一段高く、東側に広い削平地がある。案内板によれば、この場所は二の丸で、かつて堀の中に小島のように浮かぶ一の丸があったとされる。
この公園から西下へ階段をおり、道標に従って北西側に降りていくと恩智左近の墓がある。また、河内国二宮である恩智神社は恩智左近縁の神社として左近桜などがある。