築城年代は定かではないが畠山家国によって築かれたと云われる。 家国の子孫畠山満基の長子満貞は渋川郡を領して渋川満貞と名乗り久宝寺城に居城したという。
渋川満貞の子光重(光貞とも)は播磨国安井郷を領して移り安井氏を称した。光重のあと、光長、光行と続き、安井定継のときに久宝寺城に戻った。
安井定継の子定重・定正兄弟は織田信長に仕えたが、天正5年(1577年)本願寺の兵によって攻められ定重は討死、定正もこのときの傷がもとで没した。安井氏はその後も久宝寺寺内の支配権を有して江戸時代まで続いている。
久宝寺城は久宝寺寺内の一角に築かれていたという。 字「城土居(シロンド)」と呼ばれる一帯で、現在は宅地や工場となって遺構はないが、細い路地脇に石碑と案内が建っている。