築城年代は定かではない。河内国との国境に近い要衝にあることから南北朝時代頃から砦や陣が設けられたと云われている。
本格的な城郭を築いたのは木沢長政で天文5年(1536年)の頃と云われる。木沢長政は河内国守護職畠山氏の家臣で飯盛山城主となるなど重用されたが、主君畠山義堯を裏切って細川晴元に接近した。天文11年(1542年)河内太平寺合戦で長政は討死し、二上山城とともに信貴山城も落城した。
永禄2年(1559年)松永弾正久秀が大和へ入国すると、多聞山城とともに信貴山城も改修して拠点とした。
永禄7年(1564年)三好長慶が飯盛山城で病没すると、松永久秀は三好三人衆と将軍足利義輝の暗殺するなど畿内での勢力を増したが、三好三人衆と仲違いしたことにより、大和より追い出した筒井順慶が三好三人衆と結んで筒井城の奪還を計る。三好家中で孤立した久秀は高屋城主の畠山高政と結んでこれに対抗しようとしたが、上芝での戦いに敗れた。 その後、三好三人衆の陣があった東大寺の奇襲に成功した久秀であったが、信貴山城は三好・筒井軍によって攻め落とされた。永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長に久秀はいち早く降り、その加勢を得ると信貴山城を取り戻した。
元亀元年(1570年)筒井順慶の勢力が盛り返すと、翌元亀2年には辰市城合戦で大敗を喫した。その後、筒井順慶も織田信長に帰順し、その斡旋もあって和睦となった。
その後、将軍足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻したが、天正元年(1573年)甲斐の武田信玄が没すると包囲網も破綻し、久秀は多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へ退いた。
天正5年(1577年)久秀は佐久間盛信に従って本願寺攻めに加勢していたが、再び毛利輝元や上杉謙信、本願寺など反信長勢力に荷担し信貴山城に籠城した。信長は筒井順慶などを主力とする大軍を送り込み、久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると勧告するが久秀はこれを拒否。久秀は天守に籠もって自爆して果てた。
信貴山城は雄嶽と呼ばれる信貴山山頂と、南の雌嶽を最高所とし、北へ派生した各尾根に曲輪を配している。
主郭は信貴山山頂で東西に長く四段ほどの削平地がある。この西端が一番高くここに空鉢護法堂(空鉢堂)が建っている。空鉢堂の部分が一段小高くこの辺りに四重の天守があったと考えられている。東の段の辺りは横堀状になっている部分があるが、これは参道による影響であろう。
雌嶽は信貴山の南の尾根にあり、南北に長い削平地がある。南端は一段低い段が付き、土塁のような凹凸があるが、参道の影響か。城郭遺構のようには見えない。
山頂から北半分に伸びる各尾根には曲輪が配されているが、主要な曲輪群は北の谷間の両側に伸びる尾根で、特に東側の尾根は松永屋敷と呼ばれる曲輪群である。
山頂から高安山方面の林道を降りていくと左手にある広い曲輪が見える。これが「立入殿屋敷」でその下方が「松永屋敷」である。松永屋敷は谷間に面した西側に土塁を設けて平段を連なる構造で、北端は土橋状のスロープを上り、広い曲輪に至る。その手前の東側に屈折した土塁の付いた虎口があり、東下の池の方に降りていく道がある。
「松永屋敷」の東側の尾根は金丸龍王社のある曲輪群で、林道が斜めに走って曲輪を分断してしまっている。ここも最高所から北へ向かって平段が続く構造で、北端に堀切が一条あり、土塁が付いている。
「松永屋敷」の西側の尾根も主要部で、南尾根から堀切、曲輪、堀切と続き広い曲輪となる。その北下には大きな堀切があり、その先が自然地形になっているのだが、さらに北方に進むとまた曲輪が現れる。この曲輪の南西側には虎口があり、自然地形との境は空堀のようにも見える。
登山道はいくつかあるが、南側山腹にある朝護孫子寺からが一般的で遊歩道が付いている。東側山腹にある寳青院からは林道が付いている。もう一つが高安山に至るハイキング道で古代高安城の倉庫跡から高安城を経て西信貴ケーブル高安山駅に至る道である。
最寄り駅(直線距離)