永禄3年(1560年)松永久秀によって築かれた。 松永久秀の出自については定かではないが、三好長慶に仕えて重用され、天文22年(1553年)には摂津国滝山城主となり、永禄2年(1559年)には信貴山城主、そして永禄3年(1560年)には興福寺を敗って大和国の支配を強め、多聞山城を築いて拠点の一つとした。
永禄7年(1564年)三好長慶が飯盛山城で病没すると、松永久秀は三好三人衆と将軍足利義輝の暗殺するなど畿内での勢力を増したが、三好三人衆と仲違いしたことにより、大和より追い出した筒井順慶が三好三人衆と結んで筒井城の奪還を計る。三好家中で孤立した久秀は高屋城主の畠山高政と結んでこれに対抗しようとしたが、上芝での戦いに敗れた。 その後、三好三人衆の陣があった東大寺の奇襲に成功した久秀は、永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、すぐさまこれに降った。
元亀元年(1570年)筒井順慶の勢力が盛り返すと、翌元亀2年には辰市城合戦で大敗を喫した。その後、筒井順慶も織田信長に帰順し、その斡旋もあって和睦となった。
その後、将軍足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻したが、天正元年(1573年)甲斐の武田信玄が没すると包囲網も破綻し、久秀は多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へ退いた。信長は城番として明智光秀、柴田勝家などを置いたが、天正4年(1576年)大和守護職に任ぜられた筒井順慶は多聞山城に入らず廃城となった。
多聞山城は東大寺の北西にある若草中学校のある丘陵に築かれていた。 多聞山城には松永久秀が築いた四重の天守があったことが知られている。
多聞山城の中心部は若草中学校の敷地となっており遺構はないが、西側の仁正皇太后陵と聖武天皇陵となっている部分には遺構が残されているという。 残念ながら中に入って見学することはできないのだが、フェンス越しに土塁と塚のような土盛りを見ることができる。また、東側の運動場との境となる切通しが堀切の跡である。
若草中学校の正門の中に石碑が建っている。先生がいたので見学の許可をもらったが殆ど見るものがない。
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