築城年代は定かではないが古市氏によって築かれたと云われる。 古市氏は大乗院方衆徒で筒井氏と並んで大きな勢力を持った国人で、文安3年(1446年)古市胤栄の頃には筒井氏と争っている。
応仁の乱では古市氏は畠山義就(西軍)方となって戦い、古市澄胤の頃には奈良検断職となった。しかし、明応6年(1497年)筒井氏が勢力を盛り返すと、古市澄胤は城に火を放って山中へ退いている。永正5年(1508年)には細川澄元の家臣赤沢長経とともに河内国高屋城主の畠山尚順を攻めたが敗れ自害して果てた。
その後、古市氏の勢力は衰え、古市公胤は鉢伏城を本拠として勢力の回復を目指したが叶わず、筒井氏のちに松永氏に従い松永久秀が滅亡すると古市氏も滅亡した。
古市城は東の山塊から西へ派生した台地の西端付近に築かれていた。 現在東市小学校となっている付近が本丸跡と云われ、北に二ノ丸があったと推測されている。
小学校の南西端(グラウンドの南端)に石碑が立っているが、遺構は余り残っておらず、南側の池のある窪地が堀跡である。
池の南側に隣接する「字高山」の尾根の背後に堀切があり、出城となっている。またその南にも「字城山」があり、ここも背後に堀切が残っているというが、この丘陵は薮化しており遺構は確認できなかった。