築城年代は定かではないが窪城氏によって築かれたと云われる。 窪城氏は大乗院方衆徒である。
永正3年(1506年)窪城氏は古市氏に従って高樋本城を攻めたが、後詰めにきた筒井氏に窪庄本城を焼かれ没落した。永禄11年(1568年)には窪城氏は筒井氏にしたがって松永氏と戦い敗れている。
窪之庄城は牛頭天王社一帯に築かれている。 牛頭天王社は東から緩やかに西へ伸びた丘陵の南端にあり、南の平地よりやや高い位置にある。窪之庄城の遺構はこの神社を北から東背後に深い堀と土塁を築いて丘陵から切り離すように築かれており、西側にも同様に土塁と堀で区画された曲輪が残る。
日本城郭大系によれば、城はさらに南へ広がっていたようで、現在残る曲輪部分が「西殿」「東殿」、南に「内者(被官)屋敷」、「百姓屋敷」、「出屋敷」と連なっていたようである。