永享元年(1429年)筒井順覚によって築かれた。 筒井氏は天児屋根命の子孫ともいわれるが定かではない。 興福寺一乗院の衆徒である。
嘉吉元年(1441年)に家督を継いだ順永の代に勢力を広げるが、その後は越智氏などと抗争が繰り広げられた。 永禄2年(1559年)松永久秀が大和に入国すると松永氏と対立し筒井城を奪われた。松永氏の滅亡後多聞城の石を転用して城郭の拡張を行ったが、織田信長の大和一国破城命令によって破却となり、郡山城を居城とした。
菅田比賣神社の西、光専寺の南の辺りが本丸で、一部広場として残されており、ここに案内板が建っている。この部分は周囲よりやや高くなっており、南東の公園脇から菅田比賣神社の辺りに内堀があり、光専寺の北側の道路沿いには外堀が残っている。