築城年代は定かではないが豊田氏によって築かれたと云われる。 豊田氏は大乗院方の衆徒であった。
永享元年(1429年)豊田氏が井戸氏と争ったことが、大和永享の乱のきっかけとなった。豊田頼英は康正元年(1455年)からの四年間は官符衆徒の地位にあり、筒井氏、古市氏に次ぐ地位であった。
永正3年赤沢朝経が大和へ侵攻すると大和武士は一揆を形成してこれに対抗、豊田氏も筒井氏に従って豊井に布陣したが敗れた。 永禄11年(1568年)松永久秀の軍勢に攻められ落城すると、豊田氏は井戸氏とともに井戸城へ籠ったが、元亀元年(1570年)豊田氏は松永氏に内応し、辰市城の戦いで討死にした。
豊田城は東の山塊から西へ張り出した尾根に築かれている。大きく三つの曲輪群から成り、横堀や竪堀を多く利用した山城である。
豊田城は大きく三つの曲輪から成り、西へ開口した谷間の北、北西に伸びた尾根に主郭、東に東郭、谷間の南、南西に伸びた尾根に南郭を配置している。
主郭は谷間の北側にあり、南北に長い長方形の土壇で南下の段で繋いで南東側にも土壇が付く。これを取り囲むように四方に横堀が付いており、南西隅部は横堀から複数の竪堀へと変化している。主郭の南東隅にある張り出した土壇は内部が盗掘された古墳のように崩落した地形となっており、この土壇の役割が馬出なのか櫓台なのか不明だが、南東側の堀は二重になっている。
先の土壇の東側にあるのか東郭で、この曲輪は小さいが西の横堀に面して土塁がl字に付いている。西の主郭との間は二重の堀になっており、北側に開口部がある。
谷を挟んで南にあるのが南郭で、この曲輪は広く幾重かの小さな段に分かれる。この曲輪の西下から南側に掛けて横堀が巡っており、北西側は西麓からの虎口を見下ろす位置にある。
雨天だったこともあり未確認であるが、南の山中にはさらに堀が二重に存在しているようである。堀の内部には曲輪はなく地山のままだというとこで、拡張する途中で破棄されたものか、あるいは堀だけ普請したのか気になる所である。
名阪国道天理東インターチェンジを降り、南の県道51号線を南下する。豊井町交差点の北150m程の所に東側の畑に入っていく農道があり、その入口に小さな道標が出ている。これを入って行くと案内板が設置されており山道が付いている。(地図)
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