築城年代は定かではないが十市氏によって築かれたと云われる。 十市氏の出自は詳らかではないが、南北朝時代は大乗院方の国民であった。
長年盟約を結んでいた筒井氏と対立し、河内国守護職畠山氏の重臣木沢長政が筒井氏と結んで大和へ侵攻してくると、十市遠忠はこれに対抗することとなる。天文5年(1536年)木沢長政は信貴山城を築いて拠点とすると、十市遠忠は龍王山北城を築いてこれに対抗したという。天文11年(1542年)に木沢長政が討死すると十市氏はさらに勢力を増したが、天文14年(1545年)遠忠は病死してしまう。
家督を継いだ十市遠勝は、永禄2年(1559年)に松永久秀が大和に入ると、筒井氏とともにこれに対抗したが、久秀は瞬く間に大和の大半を支配し、十市氏もこれに降った。その後、松永久秀が三好三人衆と対立すると、筒井氏は三好三人衆と結んで勢力を盛り返した。十市氏は筒井派と松永派で対立し、その間に宇陀の秋山氏が進出し、龍王山城を破棄して十市城へ退いた。
その後、龍王山城は秋山氏が支配したが、信長に帰順した筒井順慶が大和を支配するようになると廃城となった。
龍王山城(北城)は龍王山城(南城)のある龍王山山頂から北西に派生した尾根の頂部に築かれている。南城との間は自然地形となり別城である。現状の縄張りから南城の方が古く、北城が後から築かれたと考えられている。
北城は国中(萱生町側)に大手、山内(藤井町側)を搦め手とする。 主郭は山頂にあって公園として整備されており、広大な平地が残る。この主郭を中心に北西から南東方向へ伸びた尾根に主線の曲輪群があり、北西が大手、南東は搦め手となる。
搦手口は林道側からの入口となり、池跡のような大きく凹んだ地形を土塁がふさぎ、大きく迂回する。その後、主郭部へ至るには大きく屈折した通路を左右に曲がりながら主郭の北側へ回らねばならず、この間、複数の曲輪から横矢が掛かる構造である。
大手側は北側にある谷間を登って道が付いており、主郭部と屋敷跡とみられる「五人衆の郭」、「馬ヒヤシ場」などの呼称が付いた曲輪群の間を登っていく。
主郭部は主郭から北西に伸びた曲輪群は西側に土塁が付き、一部は内側に石積で補強してある。南東尾根の二郭に二郭、東尾根に一郭あり、堀切で遮断してある。この三つの郭が効果的に搦手口に横矢を掛けている。
北側の山腹には先の大手口で記した屋敷跡と見られる曲輪群があり、東側へ回り込むと横堀状になった堀切と、北の大堀切がある。南側の山腹には畝状竪堀群があり、竪堀の下方に横堀状になった堀が伸びている。
龍王山へ至るハイキングコースが多数あるが、天理ダム方面から林道が山頂近くまであり、北城の入口近くには専用の駐車場も完備している。
林道は国道25号線から県道247号線に入り、しばらく行くと龍王山への道標が出ている。ここから入ると採石場となっており、右奥側へ進んで行くと舗装された林道に至る。
最寄り駅(直線距離)