築城年代は定かではないが楊本氏によって築かれたと云われる。 楊本氏は至徳元年(1384年)の「長川流鏑馬日記」に名が記されている大乗院方衆徒で、楊本庄下司職を与えられていた。
楊本氏は十市氏の勢力が伸びると越智氏と結んでこれに対抗したが、文明3年(1471年)筒井氏と結んだ十市遠清に攻められ、楊本範満は敗死した。その後、勢力を伸ばした木沢長政に従ったが、天文11年(1542年)木沢長政が敗死すると楊本氏も没落し、楊本城は十市氏の持城となった。
元和元年(1615年)織田信長の弟である織田有楽斎長益は大坂夏の陣を前に大坂城から退去すると、自身の所領のうち四男長政と五男尚長にそれぞれ一万石を分知して隠居した。 この尚長を祖とするのが柳本藩で、大泉村の庄屋に仮住まいし、寛永年間(1624年〜1644年)に柳本に陣屋を築いて移った。以後、代々織田氏が続き、十三代織田信及のとき明治に至る 。
柳本陣屋は柳本小学校と北にある黒塚古墳(柳本公園)一帯に築かれていた。 古墳の案内板しか見あたらないが、南にある専行寺が織田氏の菩提寺で、北東奥の墓碑が織田有楽斎の供養塔である。
近くの民家に門が移築されている他、橿原神宮にある文華殿として御殿が移築現存している。文華殿は公開されていないため、塀越しに見るしかないが、宝物館で販売していた「橿原神宮 宝物図録」に文華殿内部の写真が掲載されている。
表向御殿(移築 御殿)
西門(移築 城門)