築城年代は定かではないが福住氏によって築かれたと云われる。 福住氏は至徳元年・元中元年(1384年)の「長谷川流鏑馬日記」にも名がでる国民であった。
福住氏は東山内では多田氏・山田氏と並んで有力な国人で、氷室神社の神主も務めていた。福住氏は筒井氏から養子を迎えて縁戚を重ね筒井氏の一族となって筒井氏に従った。
慶長13年(1608年)伊賀国上野の筒井定次が改易となり筒井家嫡流が途絶えると、従兄弟である福住正次が筒井定慶と名乗りを替えて大和郡山一万石で存続を許された。しかし、慶長20年(1615年)大坂夏の陣が始まると、その緒戦で大坂方の軍勢が郡山城へ押し寄せ、筒井定慶はわずか一千程度の兵であったため、郡山城を脱して福住中定城へと退いた。戦後、この敵前逃亡を恥じて自刃したという。
福住中定城は名阪国道福住インターチェンジの北東にある丘陵に築かれている。 福住には福住中定城と福住井之市城があり、一般的に福住城と呼ばれるのはこの中定城で、中定城が古城、井之市城が新城とされている。
福住中定城は山頂に主郭があり、ほぼ長方形で西を除く三方に堀が巡り、北辺は分厚い土塁が付いている。土塁は西側がやや北へ張り出し横矢掛けとなる。南西隅部も張り出しており、張り出しの裾野を巡るように空堀が付いている。
主郭の南東側に出丸があり、ここに神社が祀られているが主郭側の空堀に面して土塁が付いている。現在の山道はこの神社に向かって取り付けられているが、本来は北側から主郭東下の横堀へと道が付き、さらに出丸側へ折れて主郭の南東側から入るようになっていた。
福住icから旧国道25号線沿いに東回り込み福住中学校を過ぎた先を南へ入る。十輪寺、妙成寺を過ぎた所に小さな社が祀られており、この横から参道が山上に通じている。(地図)
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