天正13年(1585年)筒井定次によって築かれた。 天正12年(1584年)大和国郡山城主筒井順慶が没して養子の定次が家督を継ぐと、天正13年(1585年)伊賀国上野へ転封となり上野城を築いた。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で筒井定次は徳川家康に従って会津の上杉討伐に従軍しており、上野城には筒井玄蕃を留守居として置いていた。西軍が挙兵すると、摂津国高槻城主新庄直頼・直定父子が上野城を攻めたが、留守居の筒井玄蕃は戦わずに城を捨てて高野山へ逃れた。これを聞いた筒井定次は家康の許しを得て急遽上野城へ引き返し、上野城の奪還に成功、戦後も所領を安堵された。しかし、慶長13年(1608年)定次は所領を没収され改易となり、磐城平城の鳥居忠政にお預けの身となった。理由については詳らかではなく、失政が多いであるとか大坂に内通していたなど諸説ある。
慶長13年(1608年)伊予国今治より藤堂高虎が伊勢・伊賀に二十万石を与えられた。 高虎は大坂方に備えるために上野城に高石垣を築くなど改修し、五重の天守を築いたが、完成間近の慶長17年(1612年)暴風によって倒壊し、大工など多数の死傷者を出した。
元和の一国一城令では上野城は伊賀国の城として存続が認められ、藤堂高虎の弟藤堂高清が城代となった。
上野城は台地の北端に築かれており、現在は上野公園として整備されている。
本丸に建つ天守は昭和10年(1935年)川崎克が私財を投じて建築した木造の天守である。 本丸の西側は水濠が巡らされ高石垣が残る。本丸の東にある城代役所跡が筒井氏時代の本丸とされ、その上にある水道施設の所に筒井天守跡の石碑が建っている。
天守(模擬 天守)