築城年代は定かではないが室町時代に田矢伊予守によって築かれたと云われる。 天正9年(1581年)第二次伊賀の乱では、城主田矢三郎左衛門以下、河合七郷の土豪が田矢伊予守城に籠城して防戦したが、蒲生氏郷率いる軍勢によって落城した。
城は引接寺の西にある山に築かれている。 伊賀では単郭や二郭程度の小規模な城が多くある中で、この城は本格的な山城となっている。 引接寺のちょうど西の頂が主郭で、そこから南北の尾根と西の尾根、北西部には出丸のような曲輪がある。
主郭は土塁で囲まれ虎口付近は内側を石垣で固められている。 主郭部は比較的歩きやすいのだが、それ以外の曲輪は折り重なるように倒れた竹薮が多く、通る道を作るだけでも大変だ。 北の石立寺から集落を越えて西へ抜ける道があり、その付近の曲輪は低土塁が西から北側を覆っている。