文和元年・正平7年(1352年)安見形部允清儀によって築かれたと云われる。
安見清儀は南北朝時代に南朝方として戦い討死した安見清賢の子で、楠木正儀が荒坂山で激戦となったさいに、交野郷軍三十九士の一人であったと伝えられる。
その後、安見氏は北朝方となり、河内国守護職畠山氏に従ってその重臣となった。 戦国時代の安見直政は飯盛山城主となり、後に守護職の畠山高政を追い出して自ら守護代を称して威勢を誇った。しかし、高政を支援した三好長慶によって攻められ、高屋城から飯盛山城さらに大和国へと退いた。永禄3年(1560年)安見直政は三好長慶の河内進出を懸念した畠山高政に呼び戻され、再び交野城主となったが、これに怒った三好長慶は高政の居城である高屋城を取り囲むと、後詰めした安見直政の軍勢をも敗り、高政と直政は河内から追放された。
やがて織田信長が河内を治めると河内南半国が畠山昭隆に与えられ、重臣の安見直政は再び交野城主となった。しかし、安見直政が没すると筒井氏によって攻められ落城、廃城となった。
交野城は交野市役所の北方、交野郵便局の東側一帯に築かれている。
交野城は東西に曲輪が並んだ平城で、城郭大系の図面に従えば、東から二ノ丸(字天守)、本丸(字城)、三ノ丸と並んでいる。特に整備されているわけではなく、畑や宅地、駐車場となっている。
本丸と二の丸の間の空堀は明瞭で、三ノ丸方面は宅地化が進んでいる。南方には堀跡らしき窪地が点在し、郵便局の南側に土塁が残っている。石碑は本丸の南東の宅地の脇、道路に面した部分に茂みに隠れるようにして立っている。