詳細不明。一般的に津田城主であった津田正時が津田城を攻め落とされて牢人後、秀吉に赦されて旧領に戻り築いたのが本丸山城で、天正10年(1582年)織田信長を本能寺で討った明智光秀に呼応して光秀に従い、山崎の戦いで敗れて再び没落したという。
『近畿の城郭』では元亀3年(1572年)松永久秀が交野城を攻めたときの「ツタノ付城」に比定されているようである。
本丸山城は北へ伸びた丘陵の北端部に築かれていた。現在は住宅地となっており遺構はない。開発にともなう発掘調査で溝状遺構や土塁状遺構、石組み遺構などが検出されたようである。