築城年代は定かではないが安威氏によって築かれたと云われる。 安威氏は鎌倉時代の終わり頃には在地領主として存在していたことから、この頃には居館が築かれていたと考えられている。
永正年間(1504年〜1521年)には安威弥四郎がおり台頭してきた三好長慶に従った。その子、安威五左衛門尉了佐は天正年間(1573年〜1592年)に羽柴秀吉の武将で茨木城主となった中川清秀に従った。
安威城は北の山塊から南へ緩やかに伸びた高台に築かれていた。 現在の安威小学校の東側一帯が城の内郭で、東西100間(約180m)、南北150間(約270m)の規模であったという。中央部分には字「御殿台」と呼ばれる土壇があったが、現在は宅地化されている。
安威城は現在は宅地化が進み明瞭な遺構は余り残されていない。案内板によれば、外郭の地形が竹林の中に残り、東南の一角に城の井戸と伝えられるものが残されているという。案内板と石碑は安威小学校の東側にある天王文庫の所に建っている。