築城年代は定かではないが文和年間(1352年-1356年)頃に赤松則佑によって築かれたと云われる。 播磨守護赤松則佑が築城し家臣広瀬師頼に守らせたのが始まりといわれ、後に赤松氏の守護代として最盛期には播磨国西八郡を領した宇野氏の居城となった。
宇野氏は毛利氏と通じて、中国地方へ進出した羽柴秀吉と対峙したが天正8年(1580年)攻められ落城した。
城は長水山山頂から東の尾根先さらに北側へと曲輪を配した本丸、山頂から南方の尾根に二の丸、さらに南東に伸びる尾根に三の丸を配している。
本丸の山頂部には信徳寺がありここの石垣は城郭遺構だという。ここから東へ伸びる尾根には民家が建てられその部分にも石垣がある。東尾根を降りた先から北側へ向かって曲輪が数段あるらしいのだが、杉の倒木が折り重なっており2段を確認するのが精いっぱいだった。二の丸方面へは尾根を一旦降って登った所に曲輪があり、休憩所となっている。
二の丸は本丸の南側の曲輪から岩がゴツゴツした細尾根を降った先にあり、平坦面が段々と続いている。
三の丸はそこから南東に伸びる尾根にあるのだが、二の丸からだと急斜面の山腹を辿って行く事となり、一旦本丸へ戻って生谷方面へと降りて行く方が無難である。三の丸は根元に堀切があるらしいのだが、歩いたかぎりコレ!とわかる場所は無かった。 三の丸も二の丸同様平坦面が段々となっているだけである。
搦手である五十波から登ったのだが、思った程時間がかからなかったので、大手側である伊水小学校へまわり、日本城郭体系の縄張図で館とされている部分へ行ってみた。 「一の門跡」と石碑のある部分あたりがそうだと思うのだが、それらしい遺構は見当たらない。