築城年代は定かではないが志加奴氏によって築かれたと云われる。 志加奴氏の出自は詳らかではないが、因幡国守護の山名氏に属していた。
天文12年(1543年)に尼子晴久が因幡へ侵攻したさい、志加奴入道は鹿野城に籠城して討死している。
尼子氏が衰退して毛利氏が台頭すると鹿野城も毛利氏に属したが、天正9年(1581年)羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、配下にいた旧尼子家臣の亀井茲矩が鹿野城を攻め落とした。茲矩はこの功によって一万三千八百石が与えられ鹿野城主となった。
関ヶ原合戦では東軍に属して加増を受け三万八千石、さらに慶長17年(1612年)二代亀井政矩が五千石の加増を受け、四万三千石となった。元和3年(1617年)亀井政矩は石見国津和野へ転封となり、鹿野藩は鳥取藩池田家の所領となり、鹿野城も廃城となった。
寛永15年(1638年)播磨国山崎藩主の池田輝澄はお家騒動により改易となった。改易となった輝澄は鳥取藩主池田光仲にお預けとなって因幡国鹿野に堪忍料一万石を与えられた。 ここに再び鹿野藩が成立したが、寛文2年(1662年)輝澄が没すると子の政直に一万石が与えられ、播磨国福本藩を立藩して大名に復している。
明治元年(1868年)鳥取東館藩が鹿野に藩庁を移し、鹿奴藩を称したが、翌明治2年(1869年)に鳥取藩に合併し消滅した。この鹿奴藩は、貞享2年(1685年)鳥取藩主池田光仲の次男池田仲澄が新田二万五千石を分与されたことに始まり、五千石の加増を受けて三万石を領した。藩庁は設けず鳥取城の東側に居所を構えたことにより東館藩と呼ばれた。
鹿野城は鹿野の市街地の南方に築かれており、現在は鹿野城跡公園として整備されている。
鹿野の街は今でも古い佇まいを残し城下町として整備されている。鹿野城は南背後の城山に天守台などを備えた曲輪群があり、麓には近世に整備された御本丸と二の丸(出丸)があり、今でも水堀が残されている。麓の御本丸・二の丸は鹿野中学校の敷地ではあるが、観光用の遊歩道が設置されている。
鹿野中学校を目指せばよい。観光用の無料駐車場が城下町に点在しており、城山の麓にもある。
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